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2008年5月19日 (月)

知るを楽しむ 歴史に好奇心 ~嫉妬の劇場~を見て①

『日本史サスペンス劇場を見て』で徳川家光について書きましたが、家光には忠長の他に腹違いの弟がいました。歴史上、2代将軍徳川秀忠と正室お江与の間には、家光の上に4人の姉がいて、家光自身は5番目で6番目が忠長(国松)その下に妹が居たようです。 

父は2代将軍 秀忠       母親
1604年 家光 (竹千代) 春日局の子(春日局の子という説に賛同)
1607年 忠長(国松)   お江与
1611年 保科正之        秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんおさ                   かよし)の娘・お静(お志津、のちの浄光院)保科正之(1611-1672 享年62歳)は秀忠と侍女・お静の間に産まれました。母親が正室でも側室でもなかったため将軍の子とは認められませんでした。7歳の時に信州高遠藩に養子に出され、その後養父・保科正光が逝去したため21歳で正之は高遠藩主となります。

それにより江戸城に参勤する事になっりましたが江戸城で大名が集まる場では何時も末座に控えていました。本人は公表しなかったのですが大名達は正之が2代将軍秀忠の子であることを知っていたので、上座を奨める者も居ましたがその時に正之は「我が藩は石高が低く、私も官位が低いので」と言って決して上座には座らなかったそうです。家光はその慎ましいところに関心し、日光東照宮参りや上洛のお供として正之を従える様になりました。その他にもう一つの理由は子供の頃から両親に溺愛されていた弟忠長(国松)を妬ましく思っていたからです。 両親に可愛がられていた弟の忠長は増長し立場を辨えない為、後に家光の命により切腹して28年の生涯を閉じます。

一方の正之はあくまでも兄・家光に対して誠実で「例え些細なことでも上様に嘘は付けない。小さな嘘を付くと大きな偽りに繋がる」という実直さが家光の信頼を得て、33歳で大名(会津藩の藩主)に取り立てられ幕府の重鎮となります。それは、幕府エリート集団の反感を招きかねない重用でしたが、分相応に徹して善政に尽くす正之の生き方は、周囲を嫉妬させることはありませんでした。

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