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2008年5月18日 (日)

日本史サスペンス劇場を見て②

歴史的に家光は春日局の子であったという事に将来なるのかどうかは分かりませんが、一番不自然なのはお江与が家光を非常に嫌いすぎている点が上げられます。お江与が家光を産み国松を産んだのであれば、多少の依怙贔屓があったとは思いますが、依怙贔屓を越えてまるで月とスッポンの様な扱いは不自然です。また、明智光秀と血筋関係が有るとされ、当時名門ではなかった稲葉家に嫁いだ春日局をお世継ぎの乳母にするのも不自然です。

お江与にとって伯父である信長を殺したのは明智光秀です。その光秀に類する女性を家光の乳母にする必要性は全くありません。それどころか、その血筋の者に自分の産んだ長男が育てられるのは気持ちの休まるものではなかったでしょう。何故なら殺される可能性もあったからです。人情の機微に長けている家康がお家騒動にもなりかねない様なことを何故したのでしょうか。

お江与の一番上の姉、淀君は豊臣秀吉の側室でした。その淀君が産んだ子が秀頼であり、その秀頼を討ったのが家康です。つまりお江与は義父の家康に実の姉と甥を殺された事になります。口には出さなくても家康を恨んでいることは家康も知っている筈です。家康は正妻と嫡男(家康の跡継ぎ)を信長の命により殺害しています。つまり家康にとっては自分の正妻と第1子を殺した男の血筋を入れたくなかった。明智光秀は逆賊、下克上の第一人者ですが家康からしてみれば、徳川幕府の礎を造る事ができた一番の功労者が明智光秀ですから、恨みよりも憎い信長を討ってくれた者という思いが強かったのではないでしょうか。子々孫々の血筋を考えた時、家康にとってお江与の産んだ子を拒絶することは信長の血を入れない事であり、むしろ光秀と縁戚関係が有り、嘗て自分の命を助けた稲葉家ゆかりの血を入れたいというのは、至極当然の気持ちではないでしょうか。(詳しい内容については過去ログ『日本史サスペンス 春日局編を見て①』をご覧下さい)

私は、このブログで「何時も報道されている事実の裏にこそ本当の真実が隠されている」と書いているのですが、家光の母をお江与の方とするよりも、春日局であったとする方がスムーズです。春日局は国松(後の忠長)を死に追いやります。仮に家光がお江与の子であったなら国松とは本当の兄弟になりますので、それに手を掛けるのは抵抗があったでしょう。しかし、国松は信長の血筋の者であり、家光を虐げたお江与の子と考えれば筋が通ります。結果として、家光は春日局の子であったという説に私は賛同します。

源義経が平泉で討たれず、実は蝦夷地(今の北海道)に逃げ海を渡ってチンギス・ハーン(1162年頃? - 1227年8月18日モンゴル帝国の初代大ハーン)になったとの歴史ミステリーもあります。いくらでも仮説は立てられますが、家光が春日局の子だったというのは信憑性が高いのではないでしょうか。

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コメント

家康が信長の命令で、正妻と実子(長男)を殺害したと言う事は
正しくはありません。松平元康に取って代わった世良田二郎三郎は、
殺害された松平元康の名籍を継いだが、家康の父親(願人坊主江田
松本坊ー後の親氏)の出身地世良田得川庄にちなんで徳川家康と名乗った。松平元康から奪い取った三河国を信康が成人した時に信康に返還する約束を反故にして、元康未亡人築山殿と信康を殺害したものだ。
明智光秀の妹を母とするお福(後の春日局)に家康がこどもを生ませて
これを、家光と名づけた(家康と光秀から名前を取った)。徳川家が
必死に隠蔽した秘密である。

投稿: Oldboy | 2010年1月12日 (火) 17時58分

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