歴史

2009年11月10日 (火)

ベルリンの壁①

20年前の11/9。歴史的出来事が起こりました。

西ベルリンを封鎖するように囲む165㎞の壁。後に3.6Mもの高さの壁により、東西ドイツは分断されました。米・英・仏は西。東はソ連。西ベルリンは早くも援助を受けながら復興し経済発展を研げましたが、東の援助は充分ではなく、戦争の傷跡を残していました。

そんな東から西へ、年間20万人が脱出。それに頭を悩ませた西政府は1961年8/13、ついに両国の間を封鎖する事にしました。あっというまに有刺鉄線が張り巡らされ、行き来できなくなりました。突然の封鎖に住民は有刺鉄線を無理矢理こえるなど、パニック。

 それでも、この時点では監視がまだ甘かった事もあり、警備の隙をついて逃げることも可能でした。しかし、これに対抗してコンクリで1.8mの壁が誕生。当時10代だったペーターという少年が壁を登ろうとしたところ、監視に銃で打たれ、まだ息があったのにも関わらず、放置して見殺しにました。
 
 更に壁の改築は進みます。壁に近い建物をなくし、監視塔を設置。無人地帯として50Mの更地をつくる事で、より厳重な監視体制をひきました。すると今度はトンネルで脱出する人がでます。1962年5月。西の廃工場から1.7の深さから水道管の近くを通ってトンネルを掘る人がいました。一日数メートル、6ヶ月を書けて東のアパートの物置に到達。このトンネルでは29人が亡命し、同様のトンネルは10本以上存在したといいます。

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2009年4月23日 (木)

NHK偏向報道とブログで話題③

 韓国の梨王朝か要請があって、松下村塾の門下生である伊藤博文が中心になり、日韓併合を考え、日本の技術者を送り、米の品種改良をし、朝鮮の人々を飢餓から救いました。台湾を統治しても、日本人は台湾人に教育をしました。同じように朝鮮にしても、教育をしました。台湾と日本の間に戦争はありません。

 本来であれば、中国に対して行ったイギリスの政策と、日本が中国(満州)にした政策と良く検証すべき立場がNHKだと思います。嘗て、公武合体の証として、皇女和宮が降嫁して徳川将軍の御台所となっているのと同様に、朝鮮には天皇家の妃候補だった梨本宮片子妃(まさこ)又、ラストエンペラー溥儀の弟の溥傑のもとに天皇家と縁戚関係のある侯爵家の嵯峨浩(後の愛新覚羅浩)さんが嫁いでいます。子のように相手国のトップと皇室が合体して縁戚関係となり国民が強調する事を考えました。 

 二人の女性は、皇女・和宮と同じ心境だったでしょう。合ったこともない。好きでもない人のところに嫁ぐ。自分が犠牲になれば日本と他国とが協調できると思って降嫁した訳です。ところが、それが全て悪意に解釈されて、欧米の植民地政策よりも悪政であったかのようになっているのは、正しい検証番組だったとは言えません。

  日本は大大敗を喫し、韓国から引き揚げましたが、その負けた日本に当時の朝鮮人が大挙しています。つまり、朝鮮の悪政より、譬え負けても日本の方がよいと朝鮮の人々は海を渡ってきたと言うことになります。自国の方が良ければ、他国にくる筈がありません。

 その事を知っている日本人の有識者達が、今回のNHKで取り上げられた番組の有り様に、これでは先人の重いが伝わらないという事で、抗議活動をしているのだと思います。

 曲解して言うのであれば、日本も欧米と同じ形での植民地政策をとり、イギリスフランス・アメリカソ連と同じ事をしたまでだと嘯けば良かったのではないのかとさえ思えてしまうのは、悲しいことです。

 欧米諸国にも王室はありました。しかし、日本の皇室のような行動をした国はありません。そこから、先人達が相手を敬い、皇室から嫁がせたという事を、最低限、日本人として心にとめておくべき事ではないでしょうか。 

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NHK偏向報道とブログで話題②

 日本人には元々、奴隷にするという考えがありませんでした。

 戦後、GHQが日本を弱体化するために将棋までをも廃止させようとした折、阪田三吉さんはGHQに乗り込んでいきました。「アメリカはレディーファーストと言っているが、チェスなどは本性丸出しで、クイーンが危うくなると、それを見殺しにしてもキングを守る。日本は違う。日本の将棋は生け捕った相手の捕虜も改心すれば、使う。一体、どちらが民主主義なのか」するとGHQは唸ったと言います。

 更に坂田さんは「アンタ方は戦犯を捕まえて処刑しようとしているが、日本の将棋のように改心したら使うこともあっていいのではないか」といったことから、巣鴨プリズンにいた処刑されていたかも知れない人達を使うこと考え、そこから吉田茂・岸 信介などが政界で民主主義を広めていったという経緯があったようです。

 このように日本には相手を酷使する奴隷という考え方はありません。

 西洋の戦いは、常に征服者が被征服者を奴隷にするというのが戦争の要因でしたが、日本は武士の情けといって、敗者に切腹という制度まで作っています。ですから、その民族の血というもので、第二案も消え、第三案に集約されました。

 第三案とは、アジア圏が強調して立ち上がり、欧米列強に対するという考えですが、

 日本は、五族協和、つまり日本・朝鮮・満州・蒙古・支那の五民族が協力して平和な国造りをする事を考えました。これを大東亜共栄圏の構築と考え、その延長上に大東亜戦争を考えるようになりました。

 ですから、嘗ては大東亜戦争と言っていたのに、太平洋戦争と名称を変えてしまいました。名は体を表す。そこから、先人達が何故戦争をしたのかという意図が分からなくなってしまいました。第一、太平洋戦争では、なんの経緯もなく、いきなり日本がアメリカに戦いを挑んだような印象を受けます。

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NHK偏向報道とブログで話題①

2009年4月23日(木)11時1分配信 ココログニュース

NHKの新シリーズ『JAPANデビュー』で、第1回に放送された『アジアの“一等国”』が偏向報道ではないかという声が上がっている。

同番組は、日清戦争後の日本による台湾統治についてのドキュメンタリー。しかしその内容が、台湾人を弾圧した印象を強くするものなどとして、複数のジャーナリストから批判が上がった。また、水島総氏が代表を務める『日本文化チャンネル桜』では、NHKが放送した同番組を検証する番組を放送し、You tubeやニコニコ動画などにアップロードされ反響を呼んでいる。

この話題に対しネットには、「被害だけを強調している」「演出が情緒的に過ぎる」「NHKとチャンネル桜のどちらの主張が正しいのかわからない」などの声が上がっている。どういう視点で歴史を扱うのか、それによって番組のメッセージや作り方は当然変わるものであり、受け手はそれに対して敏感に反応するだろう。

NHKには議連「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」から質問状が届けられるとのこと。ナショナリズムを扱うテーマは、非常にデリケートな問題であり、最も適切な「解」を見出せるかが報道側には問われている。

■参考サイト
バカモヤスミヤスミイエ
勇気凛々 岸塚康子こと ゆうき蘭 

 参考サイトに掲載されていました。この問題は、私の小さな疑問から取り上げたのですが、トラックバックやコメントも寄せられ、思ったよりも大きな問題になっています。

 実際に、あの番組に出ていた台湾人のおじいさんが、自分の発言のネガティブな部分だけ取り上げられたと言っています。当時、アジアでも列強にならぶ国として、日本はいくつかの国を統治していました。そして、当時の欧米列強の仕打ちは大きな問題にはならず、日本の統治ばかりが全て悪政であったかのように取り上げられているのが現状です。

 嘗て、欧米列強の白人種がアジアの黄色人種を植民地化したとき、その実体は体の良い奴隷制度と変わりはありませんでした。流石に手枷足枷はなかったものの、その時点で日本の統治政策とは違います。

 更にイギリスなどは、中国人にアヘンを売りつけ、中国人は阿片中毒になりました。人道的に許されない行為です。日本は中国の有り様を知っていたので、その勢いは日本にまで及ぶという恐怖がありました。

 この西洋の圧力に何としても、アジア諸国が結束して対抗しなければ、日本も小さい島国なので、植民地にされてしまうという感慨が当時の日本政府にありました。

 ここで、日本の取るべき道は三つありました。司馬遼太郎さんが描いた長岡藩 川井次の介が考えた他国は植民地になっても自国だけはさせない。今で云えば、内需拡大政策。もう一つは、欧米と同じ形での植民地支配。最後がアジアが手を組んで欧米列強に対抗するという三案です。

 これは日本人の持っているメンタルティーMentalityなのでしょう。「自分達だけ良ければいい」という観念は当時の人達にはありませんでした。敢えて「当時の人」としました。現代人との比較です。今は民主主義という、突き詰めれば個人勝手主義を優先しています。しかし、当時の日本人に民主主義という考え方はありません。国策としては第二案、第三案から選ぶことになります。

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2009年4月18日 (土)

田母神さんの講演会を見ました。

  先日書いた、チャンネル桜でアップしている田母神さんの講演会を視聴しました。

 日本人であれば知っていなければならない事実が多くあり、私も多いに触発されました。学校の教科書より私にとって、為になる講演でした。このブログでは、学校で教わった事は書かれていません。司馬さんは、日本人は、どこからおかしくなったのかを調べていくうちに作家になったそうですが、私は、日本人は、どこから変わったのかを個人的に調べています。

 私は、昭和こそ、日本人が最も変身した時代だと感じています。例えば、大和魂 というと、現代では軍国主義をイメージする言葉ですが、何故、大和魂が軍国主義なのか、その因・縁・果を語れる人はいるでしょうか。

 大和魂はいつからできたのか。戦国時代には既にあったのか。では、明治は? 昭和に入ると何故、この言葉が一般的になったのか。国花の桜との因果関係を作ったのは誰か?

 この設問を、すらすらと答えられる人は、どれだけいるでしょう?外国人に「日本、大和魂。軍国主義。イヤデスネ」と言われたら、皆さんは日本人として、頷くのでしょうか。それとも反論出来るのでしょうか? 

 こうした私達のリアクションが、その外国人から、大きな日本人観として流布されて一つの日本の歴史観となっていきます。

田母神さんの講演を見て、三つ感じました。
① この人は本当の事を行っている。その為に更迭された。
② 官僚にも、こういう日本人がいたのか
③  「田母神」とは珍しい名字だな。

 「田んぼ」に「母」に「神」

 名前の語源は、必ず、その祖先に関連があります。何とも、日本の自然観を感じさせる名字だなと思いました。私は、為になる番組は、最低でも、10回は見ます。そうすると、一回だけでは見えないものが、二回目、三回目と見ていく内に、最初は言葉だけであったのが、言霊が聞こえてきて、次に、その人の魂みたいなものが感じられるからです。

 しかし、それは誰でもそうなるという訳ではなく、大抵の場合は言葉で終わります。第二、第三段階、つまり魂を感じさせる人というのは、死ぬほど考え、悩み、葛藤したか分からないというように奥が深い話の場合です。

 動画投稿サイトのユーチューブの場合、法的に規制があって、配信時間が区切られています。それで、「次を再生」のところにチェックを入れると、続けて視聴できます。お薦めです。是非、ご覧下さい。

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2009年3月23日 (月)

信長 家康 秀吉

 アフリカの未開の地の人を文明社会に連れてきて、散々馴染んでからアフリカに帰るとライオンに襲われて死ぬ確率が高くなるという本を読んだ記憶があります。

 つまり、便利な環境が、動物的本能の感度を鈍くしていると思います。論理的思考の上に未来が来るとすれば、データを分析する経済評論家やエコノミストが、沢山いるのに、今日のような未来予測は聞きませんでした、何故か?

 それはサブプライムローンが証券化されていてアメリカの負の遺産が世界に蔓延していた事実を日本の経済を語る人が居なかった事にあると思います。知っているのに言わない理由がありません。皆が上がるというときに下がる。なぜならば、サブプライムは証券化されて、そのウイルスは世界を席巻していたから。もし、それを言っている人がいれば、今頃は『唯一、当てた人』となってテレビにラジオに引っ張りだの筈で、一挙に売り出す大チャンスの筈です。

秀吉は本能寺に信長斃れるを知って、直ぐさま、毛利と和睦し、取って返しながら、実は信長は健在だという偽情報を発信して、信長配下の秀吉に味方するように説き、その際、自分のいる現在地を時々刻々伝えるというリアルタイム情報まで流して参戦を促しました。つまり、卓魅に秀吉有利をアピールし、天王山 山崎の戦いのときには明智光秀の二倍の兵が集まり、この時点で勝敗は決していました。

 家康は、天下分け目の関ヶ原で、ダイレクトメール作戦をしていたお陰で、小早川秀秋の裏切りを誘いました。機略とは、孫子の兵法以上の閃きです。閃きとは勘。閃きの天才・秀吉、信長は発想の天才。家康は知略の天才だったと思います。

 しかし、尤もの絶頂期のとき、発想の天才の信長は部下に殺されました。最後が無様です。秀吉も、関白を譲って、余生を楽しめる段階から、おかしくなりました。前者二人にくらべて家康は違います。苦しかった幼少期から後半になるにつれ、尻上がりの罫線を描きました。

 恐らく、家康は、信長、秀吉の人生を研究を、薬草をつくりながら健康管理に努めるなど、随分と考えた人だと思います。百聞は一見に如かず。百見は一考に如かず。百考は一行う如かず。正しい行動をするために考える。考えると行動を如何にマッチさせるかは重要です。

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2008年12月12日 (金)

忠臣蔵①

12月に入りました。

今年も各局で忠臣蔵のを取り上げる番組が放送されています。

先日、日本史サスペンスで忠臣蔵についてとりあげていました。

1700年、水戸光圀が死亡。生類憐れみの霊を強く批判していた人物でした。

綱吉は「これで異を唱える者が居なくなった」と思った綱吉は、吉良上野介にある事を申しつけます。それは生母である桂晶院に従一位の位を朝廷から授かろうというのです。吉良家は高家の筆頭でした。高家とは幕府の儀式を取り仕切り朝廷との橋渡し役だったのです。

浅野内匠頭は頭を悩ましていました。将軍・綱吉の生母・桂晶院に従一位の位を授かる際に朝廷からの使者を接待する役目を担ったのですが、吉良に尋ねないと分からない事だらけなのです。しかし吉良は遠くに行っていて帰ってきていない。何時分かるか分からない人を待っていては遅い。浅野内匠頭は気持ちが高ぶると良く胸を痛めていました。

吉良上野介は式典の二週間前に帰ってきました。すると吉良は「もう一度やり直せ」と言われました。居なかったとはいえ、今まで準備してきたものは、まるっきり違っていました。全て一からやり直しです。浅野内匠頭の心労はピークに達していました。

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2008年8月 8日 (金)

その時、歴史は動いた 間宮林蔵をみて⑧

1809年、間宮は1年半に及ぶ探検を終え、報告書を作り始めます。地形や自然・産物・人々の暮らし民族同士の関係などに探検と同じ1年半を費やして膨大な量の北方探険の報告書を作成しました。

1811年3月、報告書を提出。全13巻に及ぶ記録でした。樺太とアムール川周辺の詳細な地図には訪れた土地の名が全て書かれています。各地の人々の様子を分かりやすく書いた絵ものっています。

「清国とロシアの間に種種の民族が互いに争っている。ロシアが優勢ではない」間宮の執念が詰まった報告書。これにより漸く幕府は樺太と北方の状況が把握できました。

一番の功績は間宮海峡の存在を確認したことです。世界地図に唯一日本人の名前が出ている。つまり、ロシアの勢力が樺太を全部とると言ったとき、それは違うといえる。ロシア南下を防ぐ布石を打ったのです。

間宮はその後、日本各地を廻り日本の調査・測量に邁進しました。とくに蝦夷は10年に亘って滞在し、やり残した地域の調査をしました。晩年も出世を望まず職務を果たし、着物は一枚だけ部屋には地図や地球儀が並んでいました。

北方探検から35年後の1844年に江戸で亡くなる享年65。茨城県の子孫の元には貴重な品が保管されています。この硯は大陸の石で作られました。間宮は調査記録が外国に漏れないように全て焼き捨てましたが、硯だけは北方探険の証として遺しました。

宗谷岬に佇む間宮の象。その眼差しは遙か樺太をのぞいています。

「その孤立して一意を行うや 堪えて官長に媚びずと またおのずから一奇士なり」と友人に評されています。

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2008年8月 7日 (木)

その時、歴史は動いた 間宮林蔵をみて⑦

間宮は大陸に渡りサンタン人の集落に着きました。すると顔が違うため村人数十人に家に連れ込まれてしまいます。間宮は事情を話すのですが言葉が通じません。村人は間宮の手足をさすったりしていましたが、そのうち頭を殴りだしました。間宮は村人達が歓迎の礼儀なのか持ち物を奪うのか分からないまま、樺太から同行した案内人に助けられました。

間宮は彼から村人達が間宮を殺すつもりだった事を教えられます。既に全く意思疎通の取れないところに来ていた事に改めて気づくのでした。

7/11 デレンに到着。そこには様々な民族が数百人いました。アムール川の沿岸の各地から物を交換する為の市場が開かれていたのです。間宮は役所を訪ねます。果たして役人は、中国・清の者でした。

間宮は役人と筆談します。「われ、この地にきたりしは、ロシアが我が地に来たりて仇をなすため、このあたりの土地も既にロシアにうばいとられしにやと気遣いきたりし」役人は答えます。「ロシアを日本にも仇を致しに参るや。我が国ロシアの少々の侵略は、そのままにしてとりあわず侵略やまざるにおよびて厳しく懲らしめけり。ロシアの堺は遠い北」それにしたいして間宮が「安堵いたし候」と返しました。

間宮は遂にロシアの勢力が、まだ大陸に及んでいない事を掴んだのでした。

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2008年8月 6日 (水)

その時、歴史は動いた 間宮林蔵をみて⑥

出発から10ヶ月、間宮は前回の最北端、ラッカにやってきました。そこから前回は眺めるだけだった海を現地の人々の船を借りて渡る事にします。1809年5月。狭い海を登り切った間宮は「このところ極北の地にして家わずかに五つ六つ。北は海が緩やかに開けり」自分が北上してきた海が海峡であった事を確認します。これが間宮海峡です。これにより自分の目で樺太は大陸と繋がっていない。島であることを確認しました。

1809年5月、現地のスメレンクルの長が気になることを話します。「ロシアの国境は、この島から遠からず。露西亜領の民らは時々、船に乗じ鉄砲を持ちて、近くの海に猟をすること少なからず」そして「デレンという地に、どこかの国の役所がある」という話を聞きました。

ロシアは大陸の何処まで、きているのか?もしや、デレンの役所とはロシアのものではないか。間宮はデレンに連れて行ってほしいと頼むも「林蔵が容貌の異なるをもって、人々それを怪しみて必ず林蔵を嬲り、その苦しみに絶えずして死に至るべし」と言われてしまいます。

間宮は「幕府の命なくして異境の地に入るは、禁令に触れる恐れ在りと言えども、ロシアの様子を奥深く探り尽くさずして帰るも調査を命じられし甲斐もあるまじ」と考えます。間宮の固い意志に遂にスメレンクルの人々も首を縦に振りました。

間宮はスメレンクルの人に、これまで書きためた全ての記録を託します。「我 万一、彼の地にて死亡のこともはかり難し。その時は、これを持ち帰りて幕府の役所に捧ぐべし」

命を賭して間宮林蔵は大陸へと渡しました。

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