書評

2009年7月 2日 (木)

「告白」という小説について③

 私は、この本をテレビ番組の本の紹介紹介コーナーで知りました。テレビとしては面白かったとしなければならないのでしょうが、何でもかんでも面白かったと連発しているような感もあるます。どうも、現在の風潮はトリック優先で動機が稀薄というか、親近感が湧きません。

 マスメディアにでると、突然ブレイク。丸山議員も大阪府知事も宮崎知事もそうでした。人気があるイコール正しいと、現代人は認識してしまう傾向が強いと思います。例えば、大阪府知事の橋下さんは、当初、立候補は「二万パーセントあり得ない」といっていました。他人の事ではなく、自分の事です。しかも弁護士です。自分のいった一言で、救える人も救えなくなる職業です。これに関しては首を傾げました。

 私は、政治家に一番必要なものは『先見の明』だと思っていますが、二万%という数字のボキャブラリーが不安です。これはもう人気先行資本主義の一番の欠陥だと思っています。拝金主義、人気主義、そして人気があれば権力に通じていく時代になっています。例えば、東国原さん人気がある。故に正しい。実績も上げている。しかし、因・縁・果がポリシーの私としては、その前の人が気になります。

 その前の知事が悪政を引いていれば、次の人は、或る意味やりやすいのではないでしょうか。例えば、橋下さんの前の女性知事は、どうしてこうも大阪府の財政を増やして、退職金だけで、八〇〇〇万も支払われたのに問題にされなかったのか、何なのか。その更に前のノック知事が、最低で政治以前の問題で辞めたことにより、その反動で女性知事が誕生したという経緯にも起因します。小泉さん然り、それ以前の田中角栄さん然り。特に現在は、人気から権力を手中出来る資本主義が出来上がりつつあります。

 しかし、田中角栄型政治の継承が小沢さんで、もう五〇年以上も続いています。小泉さんも、後生の評価が高いとは、とても思えません。陰の功労者は田中真紀子さんと竹中平蔵さん。田中さんは小泉さんを奇人と称しました。そして、その奇人を総理にさせたのですから、田中さんこそ大奇人です。竹中さんは、小泉さんから丸投げされて、やりたい放題でした。

 ところで、小泉さんと竹中さんの交流が全く無いようです。竹中さんがこれだけ叩かれているのに小泉さんが黙っているのは、沈黙の肯定のように思います。そう言えば田中真紀子さんも嘗て高い人気がありました。私は温故知新と因・縁・果の法則をブログの憲法にしていますが、そこからの結果は人気あるイコール正しいとはならない。むしろ、悪政を施す方が濃厚という結果の方が色濃いという結論を導きます。

 例えば今、毎日特集されている。マイケルジャクソンですが、とてつもない人気があります。しかし、だからといって、正しかった。少年への性的虐待はなかったとはなりません。むしろ奇行振りから見るとあったと言う見方も否定できません。本も同じで、デスノートや告白が大ブームになった事は認めますし、面白いとも思いますが、ブームだから正しいということにはなりません。

 全く同じ本でも、一冊は、「今日苦しくても明日は痩せる」というタイトルで出し、もう一冊は「何時も通り食べて痩せる」とした場合、前者が売れます。何故なら人は易きに流れる習性があるからです。それではどちらが信憑性があるかとなると、前者となります。しかし、売れるのは後者です。

「悪貨は良貨を駆逐する」とグレシャムはいいました。現在は資本主義と情報化が一体になった時代となり「悪習が美風を駆逐する」時代であるのかも知れません。

この記事を読んで良かったと思った方は投票してくださると嬉しいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「告白」という小説について②

  さて、犯行について。Bの場合、来てくれた男教師に叱られ、当然反発しますが、相手は強いので、次に女教師をターゲットにします。しかし女教師も強い。それでは、一番弱い奴は誰だ、となり四歳の娘へと二人の考えは定まっていきます。そして、担任の女教師の女児四歳の殺害を考えます。

 世の中には様々に人がいますので、そう考える子は居ないとはいえません。しかし、読者が読んで、あぁ、自分も同じ立場であったら、もしかするという部分が稀薄です。
 
 クラスの子供の前で、二人の少年を追い詰めていく。それはスリリングで謎解きという部分では興味が引かれます。デスノートという漫画が大ヒットしました。殺したい人の名前を、そのノートに書くと確実に相手が死ぬという設定です。人は、1日に七万回も考えているようです。「頭で考えていることを実行したら、全員が前科一〇〇犯になる」と言った人がいました。

 恐らく、太古の昔から、呪詛とか呪いとかがあるのですから、気に入らない者を抹殺するという妄想は誰にでも一度や二度はあるものだと思います。しかし、それが漫画となり映画となる時代になりました。ドラえもんは、道具を使って何でも思い通りになります。人間弱いもので、そうなると、欲しいものが手に入る子は幸せで手に入らない子は不幸になります。

 女教師は、「すぐに買い与えるのはいけない」という考えのもと、四歳の娘が欲しがったうさぎのポシェットを買い与えませでした。犯人の少年達は、その娘をウサギのポシェットで誘き寄せます。中学生の自分が、母親にあいたいのであれば、四歳の子どもは、母親が世界ともいうべき、その真っ直中にいることくらいは分かるわけです。つまり、自分は中学生で、母親にあいたい。そこで、四歳の女児を殺して、永遠に母親に逢わせない行動を計画するわけです。しつこく書くと、その為に、その女の子の欲しがっていたものを買って見せびらかしてまで、殺人に執着するわけです。

 食事にしても、音楽にしても、小説にしても、終わった後が、つまりマスターであれば客が食後満足するかに全神経が向きます。アーティストなら曲が終わった後の拍手大喝采が欲しい訳です。作家なら、読者が求めるのは読後感ということになります。(私の場合は自分と、これを書いた作家の違いと共通点を探して読んでいる訳ですが)

この記事を読んで良かったと思った方は投票してくださると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「告白」という小説について①

(タイトル⇒ 「告白(湊かなえ著)」という本を読みました。① ②)の続きです。

 上記の通り、感想を書きましたが、漠然としたひっかかりがありました。私は、プロの作家を目指しています。そうなると、読み方も変わります。面白い、面白くないという感情で読むのではなく、何故この小説を人々は認め、特に何処が良かったのかと思ったのか。話の筋はどのように通っているのかと分析しながら考えながら読みます。

 ですから、下記は感想というより、分析・推論という風になります。

 兄弟喧嘩をしない兄弟は少ないでしょう。大人になってからは兎も角、通常は年長者が下をこずいたり、ぶったりします。先輩、後輩も同じです。上司と部下も同じです。それは、序列であり、力であり、法則にも似たものです。

 例えば、好きな歌とか曲があります。しかし何度聞いても、生き方は変わりません。
生き方は、書物だったり、現代なら映像を通してのこともありますが、突き詰めれば言葉です。珠玉の一言、名言、心に残る格言ともいうべきものです。

 告白は、中学生が担任の女教師の一人娘を殺害します。犯人は二人。学年は強調されていません。中学の三年間は大人になってからの三年と違って、一年ごとに身体も精神も違うと思います。犯人の年齢は13歳。中一では、幼い。中2くらいが良いのでしょうが、しかし中二だと分別が、中一よりはあります。

 殺人という行為がリアルなのに、学年を鮮明にしないのは私のような読者には不満でした。犯人は、二人組です。この二人は、勉強できるA とできないBです(便宜上)。Aの動機は、実母と別れていて、事件を起こせば、母親が心配して戻ってくるというものでした。

 Bは、警察に補導された際、担任でない以前から因縁のある男の教師がきた事に腹を立てます。何故、担任ではないのかと、しかし、その学校には規約があって、女子生徒の時は女の先生が、男子の場合は男の先生がとなっていたので担任の女教師ではなかったというシステム上の問題なのですが、Bは知らないので、それに腹を立てます。

 しかし、当然、警察としては、その少年を10倍もしる担任を要求すると思います。この場合は二人で行けば良かったのではないでしょうか?警察という公的機関からの呼び出しがあった際、担任が出向かないことなんてあるのかな?と思いました。

 Aは、新聞が取り上げるような事件をおこせば大ニュースになって母親が心配して駆けつけると踏みます。話を反対にしましょう。少年は、素行が悪かった。それで母親は出ていった。母親に帰って貰うには、素行をよくし、その事を知らしめる必要があります。しかし、勉強の出来る子は、その逆をしました。しかし、母親が出ていったのは、その子の問題ではありませんでした。よって母親には出ていきたい事情があった。そこに息子が人殺しをしたら、戻ってくる事は更に嫌になります。

 しかも、少年が事件を起こし、犯人であると言う事が報道されれば母は戻ると考えるのですが、そのとき少年は、のほほんと家にいられると考えるでしょうか。身柄は当然、警察、少年刑務所、少年鑑別所、そのくらいの事は中学生なら分かる道理なのですが、Aは歪んだ人格、という事で片付ける問題なのか。つまり、頭が悪かった。だからこういう事をした、ならまだしも、爆弾を造れるほどの少年の考え・動機としては、ちょっと疑問を感じます。

この記事を読んで良かったと思った方は投票してくださると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月26日 (金)

「告白(湊かなえ著)」という本を読みました。 ②

  私は、悪く言えば、リアルに拘る傾向があります。刑事コロンボは、犯人との遣り取りの中で、矛盾を突いていきます。すると犯人は得意になって反論するのですが、その言葉が、新たなる矛盾を露呈していき、犯人は自分の行ったことに整合性がなくなり、コロンボに屈してしまいます。

 私は、アメリカ人は大雑把だと認識しているのですが、コロンボには唸ります。その緻密さは日本人より日本人で、アメリカ文化の奥深さ、侮れないと思うのが、刑事コロンボです。

 よれよれのレインコート。オンボロのプジョー。ボサボサの頭と葉巻。全てが犯人を油断させるための演出です。犯人は冴えない刑事とコロンボを見下し、ボロをだします。
犯人は最後に、「大した演出だ」と半ば呆れていいます。するとコロンボは必ず「何の事ですか?」と惚けます。いや、もしかするとコロンボは、本当に最後、犯人が言っていることが分からないのかとさえ思わせます。

 何故なら、犯人は全てを認めたのですから、コロンボは「流石に、貴方は賢い。私の演技を見抜いていたんですね。優しい人だ。知っていて、地付き合ってくれるなんて感激ですな。私の三流芝居。修行が足りないですね。私も、出直しますよ」と言ってもよい訳ですけど、一作も、そう言うシーンはありません。だからこそ刑事コロンボは名作です。

 松本清張さんが出版社に「推理小説は、トリックを考えるのは純文学と違って、取材と筋立てに時間を割かれるから原稿料を上げろ」といったそうですが、冗談ではなく案外、本気だったのではと思います。

太宰治のファンは多くいます。作家の井上ひさしさん。そして声に出して読みたい日本語の齊藤孝さんは、「太宰を読む人生と、読まない人生とは違う」と言って、子供達に太宰を勧めていますが、私は疑問を感じます。

 その最大理由は、太宰ともなると、一つの権威です。しかし、太宰の存命中は、実はそれほどに評価されていません。志賀直哉も、ノーベル文学賞を取った川端康成も、そう高く太宰を評価していません。

 自分を認めない志賀直哉や川端康成を罵倒し、それでいて、川端に、「自分を芥川賞に推薦してくれ」と手紙で哀願しています。今から100年前の人です。今と違って当時は、長幼の序あり 敬愛の精神 『三歩下がって師の影を踏まず』が実践されていた時代です。当時としては、良く言えば、異端児、悪く言えば、独りよがりの困った奴だという評価だったと思われます。

 最近の心中事件は、激変しているのではないでしょうか。当時は、それなりにありました。一つは生活苦です。もう一つは道ならぬ恋。仕来りが厳しく、身分が違うという理由もあり、心中事件がありましたが、今の世は不倫時代。中学生が妊娠しても、事件ではなくなりました。

 昔なら心中していても不思議でない事柄が、日常茶飯事といった感がします。何を言いたいのか。太宰の起こした心中事件は、特殊です。何故なら、彼は当時、地位と名声があり、家庭を顧みず、女は取っ替えひっかえしていました。謂わば、男の理想型でした。

 その末の心中事件ですから、太宰が心中事件の最大公約数として扱われることに気色の悪さを感じます。兎も角も、結果として、死にたかった太宰は、二人の女性を道連れにしています。しかし、歳月が流れると、そうした事が問題にならず、「太宰の苦悩」という方に引っ張られがちになっていると思います。

 前述したように、生き様としては、当時の人としては自分の好きなように生き抜いた人で、それを苦悩した人というカテゴリーに入れてしまうのはどうでしょう。

 「太宰を読むか、読まないかで人生が別れる」というような事を著名な人が言うと、真面目な学生ほど、「理解できないと、理解できない自分がいけない。太宰治の作品を精読しなければ」と思うでしょう。これは心の健康上、よくないと思います。

 私のブログ憲法は「肩書きに騙されるな。世相に迎合するな」です。何れにしても、太宰 治を生意気にも評して、作家を目指すという変わりもものもいるということで、まぁ、様々にご意見はあるでしょうが、私のブログなので感じている事を書きました。

この記事を読んで良かったと思った方は投票してくださると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「告白(湊かなえ著)」という本を読みました。①

この本は、章ごとの人物の独白形式で構成されています。第一章に、ある意味事件の全てが詰まっています。第一章は中学の女教師の独白形式です。

その日、女教師は中学を去ります。それにあたり、最後の挨拶として、クラスの生徒に訴えかけるという形です。

違和感があったのは、主人公の女教師が延々と語るところです。印象では一気に20分くらい話つづけるのですが、生徒が殆ど反応しないので、慣れるのに時間を要しました。女教師の4歳の娘が殺されるのですが、クラスの中に、犯人が居る。語る中で犯人を追い詰め、示唆するという形です。

私の場合は、語る先生の状況を語ります。
例えば、「気に話すと溜息をついた。天井を見つめたが、続けないといけないという意志からか、黒板に向かうとチョークで、私の娘を殺したのは誰なのか?と書き、徐に又、語り始めた」というように、女教師のポジションを挿入します。

しかし、それがないといっていいほどありません。その事から読者が疲れるではと思いました。同時に生徒達の存在がは、ただ聞き入っていて存在感がないので、これは手紙文なのかと、何回か錯覚しました。

まず、私の興味或いは感心は、以下に絞られました。

①クラスにいるという犯人の動機はなに?
②何故、女教師はクラスの中にいると推理したのか?
③警察が分からない犯人を女教師は知り得たのか、
④警察は、動いていないのか、
⑤何故、警察に告発しないのか。

④の警察が動いているのか?は、警察は水死として処理したので、動いていません。しかし4歳の女児が、小学校のプールに一人入ってきてプールに落ちて溺死した場合でも、誰かの仕業とは考えないのでしょうか。時期は2月なのに。という印象でした。

⑤何故、警察に告発しないのか。これは、説得力があるかなと思いました。少年法に守られているので、彼らは刑務所にはいることはなく、すぐ社会復帰できてしまう。だから、法に裁きを委ねず、私刑をかんがえたという事でした。

でも、ちょっと設定・トリックに無理があるんじゃないかと思った点がありました。その中学では厚労省から牛乳を飲む促進運動のモデル校として選ばれていて、昼食の時間に出席番号で各自割り振られた牛乳を飲むことになっています。

 でも、普通、学校給食の飲み物は牛乳です。弟(中一)に確認しましたが、今もそうだと言っていました。私の時は、プラスチックのカゴに牛乳パックが入っていて、それを給食当番が適当に各自の机に配っていました。(或いは配膳台に乗せられているのを各自が持っていきました)では、給食ではなく弁当だったのか?(作中で給食なのか弁当なのか、はっきりと謳っていない為)

 しかし、その場合も、例えば「あなたは○○くらいカルシウムが足りないから、この分量だけ飲みなさい」と各自に必要な分量が違うなら兎も角、与えられるのはどれも同じ既製品の牛乳パックです。それなら、何故、出席番号順にふる必要があるのでしょうか。そんな手間のかかる事をするのかな?

 結論は女教師は、牛乳パックに出席番号を書いてある事を利用して、二人の犯人の少年の牛乳に細工をします。でも私は、上記の事が気になって、このトリックに違和感を感じました。

 電話の声から、その人を想像して、会ってみると殆ど外れているという事は多々あると思いますが、 私は作者をテレビで見て、作品を読んで、違和感を感じませんでした。そのくらい作者の印象と作風が一致していました。特に、主人公が延々と一人で話しつづける作風は、私にしてみれば珍しい書き方で、やや読み疲れしました。

  私は、職業作家(プロ)を目指しています。そうなると小説は楽しめません。どこに、読者は惹かれるのかということを考えながら読みます。

 ノルウェイの森も読みましたが、主人公と関わる女性は、回想で幼いときに家に帰ると姉が縊死(首つり)してぶら下がっていました。小説では、(お姉さん、背が高くなったように見えるけど、どうしたのかしら)という印象をかたり、その後で縊死であることを確認したように書かれています。

 しかし、縊死は、人の穴という穴から内容物が出て、見た瞬間に、全身毛が逆立ち、血が引き、所謂、身の毛がよだつ極地の瞬間を瞬時に体験し、仮に見内であっても嘔吐を催すほどだと言います。そして、その姉の死の動機も語られていません。

 小説だからいいという意見もあるかも知れませんが、私はちょっと納得がいきません。概して、松本清張の作品には、そうした矛盾がありません。そこが作家の腕の見せ所で真骨頂です。例えば、刑事・コロンボだと
「お嬢さん、縊死というのはね。それは悲惨なもんだ。私はね、始めて見た仏さんが縊死だった。一週間も食事ができませんでしたよ。穴という穴から、全部、人体にあった内容物が出るんだ。耳の穴、鼻の穴といいね。それだけじゃあないんだ。貴女は妹さんだ。最初に遺体を見たんでしたよね。部屋に入った。異臭はなかったんですか」

「あれ、お姉さんは背が高くなったのかなと思った。しかしね、縊死というのは、首に輪っかが掛かっているんですよ。それは眼に入らなかったって言うんですか」となるところです。どのコロンボ作品を見ても、縊死をみて、それに気が付かなかったというような作品はありません。純文学と推理小説は、相対関係にあると思っています。

まあ色々な意見はあるでしょうが、私のブログなので私の思っている事を書きました。

この記事を読んで良かったと思った方は投票してくださると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 6日 (火)

女総理への火花を読んで

経済小説家・大下英治さんの「女総理への火花」を読みました。

表紙からして田中真紀子似と小池百合子似の女性が描かれています。

あらすじは、女性ニュースキャスターの主人公が、田中真紀子似の政治家を自分の番組に呼び、対決するのですが「ブラウン管で言ってないで、ちゃんと選挙の洗礼を受けて、あなたが内部から政治を変えたらどうなの」と挑発されます。そこで主人公は政界に出馬し見事初当選。そして対決が始まっていくというものでした。

あの有名なロッキード事件の話しや指輪事件、会談のドタキャンなど実在の人物を彷彿とさせるつくりになっているので読みやすかったです。

 この記事を読んで良かったと思う方は、ランキングに投票して下さると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月10日 (水)

「HERO」を読んで⑥

政は名実ともに秦の王となると、もはや一刻だけでは飽き足らなくなります。

他国の王を滅し、唯一、自分が絶対者になろうとしたのです。他の6国(当時の中国は秦・趙・韓・魏・燕・楚・斉が割拠していました)は連携し秦の攻撃計画を練ります。しかし、それを知った政は些かも動揺しませんでした。その時、既に彼は誰にも心を開かなかったのです。人付き合いはせず、自分の理想は自分だけが分かっていればよいと着々と戦いに勝っていきます。

彼が30歳の時、目的はあと一歩のところにまで迫りました。秦は連勝し6国は一掃されつつあったのです。しかし政は一抹の不安を覚えます。秦以外の6国を敵に回しただけでなく国内にも謀略の陰が見え隠れしています。いうなれば四方八方を常に敵に囲まれ、いつ殺されてもおかしくない状況になってしまったのです。

映画では、この部分は語らずに、いきなり無名という男が政の命を狙う刺客を倒したというところから始まるのですが、この部分を読んだ事でより理解が出来ました。

 この記事を読んで良かったと思う方は、ランキングに投票して下さると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 8日 (月)

「HERO」を読んで④

子楚に趙姫の子供は、自分の子供だと思わせる事が出来ました。やがて男の子が生まれ、彼は政と名付けれました。

呂不偉は溜飲を下げます。自分の血を分けた子供が、やがては秦の王になるのです。でも、そんな呂不偉にも大きな計算違いが一つだけありました。それは息子が実の父以上に明晰な頭脳と実行力を持っていた事です。

生後数年にして政は難局に立たされました。秦と趙が戦争を始めたのです。待遇は驚くほど変わったとはいえ、いまだに人質の身であった子楚は危険にさらされました。そこで呂不偉に助けを求めます。切り札である子楚を見殺しにする訳にはいかないので、大金を積み子楚を逃がすのですが、趙姫と政は残されてしまいました。

趙姫は恥を忍んで、政と子楚に血縁関係がない事を訴えますが、誰もとりあってはくれませんでした。結局、元々趙国出身の趙姫の実家のものが取りはからって命だけは助かったのですが、地獄の様な日々が続きました。

しかし、ある日突然、そんな毎日に終止符が打たれます。政が十歳になったとき、秦に呼び戻されたのです。政が王位継承者として正式に認められたからでした。

 この記事を読んで良かったと思う方は、ランキングに投票して下さると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 7日 (日)

「HERO」を読んで③

しかし子楚は、「こんな惨めな私に一体、何ができるというのだ」と尋ねます。

「今の貴方には何も価値がないかも知れない。ただ付加価値が付けば、その値打ちは変わる。私には財産と人脈と金がある。それを利用してそう遠くない未来、貴方を秦の玉座につけてみせる」

子楚には、とても信じられない話でしたが、やがて彼の話に乗ってみたいという気持ちが強くなります。もとより失う物は何ももっていないのです。

「もし本当に貴方の言うとおりに事が運んだなら、私の物となった秦を半分、貴方に譲らせて頂くことにしよう」

呂不偉は権力を欲するだけ会って有能な政治家としての」最良をお持ち合わせていました。彼は秦に赴くと金をばらまきながら遊説してあるきました。人脈と金脈を駆使し、ついに子楚を王位継承者として売り込むことに成功したのです。

呂不偉は聞きとして趙国へ戻ると、子楚の元には新しい王位継承者を支援するための普請が惜しみなく送られてくるようになりました。子楚は、それまでの生活と一変し、これ以上ないほどの満ち足りた日々を送りました。しかし一つ足りない物がありました。「妻」です。

呂不偉には、数多の愛人がいましたが、その中でも美女だったのが趙姫と呼ばれる踊り子でした。子楚は呂不偉の家を訪れた際に彼女をみて一目で気に入ってしまい、妻にしたいと言い出します。

呂不偉は激怒します。趙姫は彼にとっても最愛のひとだったからです。しかし冷静になると考えを改めました。激しい怒りを胸にしまい、子楚に趙姫を譲り渡します。

この時、子楚はしらなかったのです。

趙姫のおなかの中に既に呂不偉の子供が宿っていた事を。

            この記事を読んで良かったと思う方は、ランキングに投票して下さると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 6日 (土)

「HERO」を読んで②

   秦王・政(ジェン)は王家の地をひく子楚の子供とされていますが、実はその出生には秘密が隠されていました。

昔、呂不偉(りょふい)*偉の字ににんべんはない字なのですが、出ないのでこの字を使います。

という豪商がいました。彼は一介の商人としては破格の財を蓄えていました。そんなある日、彼は趙の国で乞食と見まがうほどのみすぼらしい身なりをした若者に会います。それが子楚でした。当時の中国は日本の戦国時代と同じで相手の国から人質をとるのが常套手段でした。そんな事から人質は同じ王位継承者でも順位の低い者がなりました。

しかし、一旦戦いが始まれば真っ先に始末されます。謂わば、子楚は見捨てられた存在でした。子楚は当時の新国王・昭王の孫でした。正式な王位継承権を持っていなかったせいもあり趙国は勿論、秦国の人間すら彼を相手にしませんでした。困窮と孤独から子祖は自暴自棄に陥っていました。「ただ、ひたすら殺されるのを待つだけの人生など、生きながらにして死んでいるようなものだ」と破れかぶれの状態だったのです。

そんな捨て鉢の様な思いで虚無な日々を送っていた子楚の前に現れたのが呂不偉でした。彼は、こう言いました。

「あなたは、このまま終わる人間ではない。いずれ大物になるだけの器量をお持った男である偉。いや、私が必ずそうしてみせる」

この記事を読んで良かったと思う方は、ランキングに投票して下さると嬉しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)