連作 大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?

2008年6月23日 (月)

大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?47

太平洋戦争が大東亜戦争に、そしてアジア・太平洋戦争へと名前が変わるとの事から太平洋戦争を調べてきました。例えば『応仁の乱』ですが当時の渦中の人が「俺は今、応仁の乱をやっているんだ」とは思っていません。

江藤新平に云わせれば「俺が佐賀の乱で、どうして西郷は西南の役なんだ」と文句を言いたいところでしょう。しっかりした定義は分かりませんが『乱』は「何でそんなことを」という思いを感じます。『役』ですと他には蒙古襲来の1274念文永の役、1281年弘安の役があります。更に最近では天下分け目の関ヶ原=関ヶ原の戦いが関ヶ原の役になっています。つまり会津征伐、松川の戦いから関ヶ原までを纏めてそう呼ぶようになったようです。更に大阪夏の陣と冬の陣をあわせて大阪の役となっています。

徳川家康は軍神・東照大権現という神になりました。西郷の明治政府への反逆を「西南の役」としているに「関ヶ原を戦い」では申し訳がないということなのでしょうか。真相は分かりませんが、こうして後生は遡ってネーミングを変えるようです。その事が的確に事の真相を真実を語っているのであればまだしも結論として太平洋戦争は大東亜戦争に戻した方が事の本質から離れていないという感慨を強く持ちます。

さて当時の中国で蒋介石(国民党軍)と毛沢東(共産党軍・紅軍)とが二手に分かれて覇権争いをしていたように実は日本にもそういう事がありました。1884年東条英機 VS 1889年石原莞爾です。歳の差5歳。1931年9月に東条英機了解のもと石原は柳条湖事件を自作自演し奉天・長春・営口といった各都市を占領していく所謂、満州事変を敢行しました。石原莞爾が起こした満州事変は緻密な計算と事後の展望がありました。1937年石原は関東軍参謀副長を任命され、新京に着任。しかし石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えていましたが、参謀長の東条英機は盟友を育てるのではなく日本が管理、運営すると考えていたので両者の確執が深まりました。

二人の不仲は険悪で例えば首相となった東条英機が、「ガタルカナルを救う方法は?」と尋ねると石原は「貴方では戦争は勝てない。総理大臣をやめるべきだ」と本人に言っています。石原莞爾は、昭和の陸軍軍人で「天才」と呼ばれた戦略構想家でした。石原は、若い頃から五歳年上の東条を「上等兵」「憲兵」と揶揄するほど軽蔑したようです。そのような経緯から東条は石原外しにかかります。

1938年に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、
1939年には留守第16師団に着任して師団長に補せられ
太平洋戦争開戦前の1941年3月に現役を退いて予備役へ編入させられました。 

内憂外患という言葉がありますが何が内憂かというと国の存亡の時に要職の二人が啀み合っているのですから勝因が見いだせません。 しかし唯一彼らの一致点は手法は違っても大東亜共栄圏構想であったと言うことは確かだと思います。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?46

溥儀(フギ)は1934年に満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となりました。これに伴い正式国名が満洲帝国となりました。1937年、溥儀(フギ)の弟の溥傑(フケツ)が、天皇家に繋がる名門華族の嵯峨家(旧姓・正親町三条家)令嬢の嵯峨浩(サガヒロ)さんと結婚。つまり朝鮮に嫁いだ梨本宮方子(マサコ)さんと同じ形を取った事になります。溥傑(フケツ)は、これに先立つ1935年には昭和天皇の招待により日本を公式訪問するなど、溥儀以下満州国の王族は日本及び日本の皇族と密接な関係となりました。余談ですが溥儀(フギ)溥傑(フケツ)の一族である愛新覚羅・顕シ(漢字が出ません)は川島浪速の養女となり「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と云われた川島芳子です。

さて溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なっています。なお、訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行。日本国民からも熱烈歓迎で迎えられました。大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦により、日本が連合国と戦争状態に入った事から満洲帝国も日本に追随しました。

しかし、日本軍とイギリス軍やアメリカ軍、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満州帝国の事実上の宗主国である日本と隣国ソビエト連邦との間にあった日ソ不可侵条約ですが。ソ連は満州帝国を承認してはいませんでした。(承認していたとしても不可侵条約は破っていますので、それほど意味がないのかも知れませんが)兎も角、清の王朝を代表する溥儀(フギ)が認めたものを第三者であるソ連は認めてはいませんでした。

1945/8/15に終戦。その2日後に8月17日に満洲帝国の解体が決定。溥儀(フギ)は満洲帝国皇帝を退位し溥儀や溥傑、吉岡ら満州帝国の首脳陣一行はソ連軍の空挺部隊に捕らえられ直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に収監されました。極東軍事裁判(東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下で東京へ護送され、ソ連側の証人として出廷。ソ連に有利な証言を強要されました。「自分の立場は日本の傀儡以外の何ものでもなかった」と主張させられました。その後、中華人民共和国で「戦犯」としてハルビンの政治犯収容所に、弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満州国の閣僚や軍の上層部らとともに収監されました。1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦されました。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も1960年11月20日に釈放されました。

これを私流に解釈すると自国の王家、王の事は無視して毛沢東(共産党軍・紅軍)と蒋介石(国民党軍)の覇権争いがあったので追われた王家は日本を頼り日本は庇護したという事になります。ロシアは満州帝国を認めないとしましたが本来認めるか認めないかというのも越権行為で世界が認めた帝国がロシアではないのですから認めたくないだけのことであって認めないはどういうつもりということになります。

元々ロシアにはニコライ皇帝がいました。しかしレーニンはマルクスの思想を受けて社会主義政権を樹立。その際にロシアからソビエト連邦(ソ連)とします。これに先立ちレーニンはニコライ皇帝とその一家は全員(皇帝・妻・子供6人)を処刑しロマノフ王朝は崩壊しました。共産思想は立前が平等ですから皇帝王朝制度を否定します。現にロマノフ王朝朝の圧政が続いた事から階級闘争を第一にかかげる共産主義政権が生まれています。その思想を毛沢東も 当初蒋介石も模倣しようとしたのですから清王朝は眼中にはなかった訳です。

ですから日本が当時のソ連に奪われれば天皇家は間違いなく解体され日本の男の殆どはシベリア行き、そして第一に施されるのはソ連語の習得と共産主義思想の教育だったことでしょう。統治するに当たって日本の誰を金日成キム・イルソンにしたのかは分かりませんが現在の北朝鮮は日本であったとしても不思議ではありませんでした。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?45

満州王国という発想は、どのようなものであったのでしょうか。

中国の王朝は清王朝で終わりました。清王朝のラストエンペラーは愛新覚羅溥儀(フギ)という人でした。即位したのが1908年。生まれたのが1906年なので2歳で皇帝になった訳です。

この頃の日本の時代背景は
1894-95 日清戦争
1904-05 日露戦争
1908    溥儀(フギ)即位
1910   日韓併合
1914-18 第一次世界大戦
1931   満州事変
1937   日華事変⇒日中戦争
1941-45 大東亜戦争   

ですから溥儀(フギ)が即位したのは日清戦争の13年後の日露戦争の後、さらに三年後の出来事ですから眠れる獅子と云われた中国に勝ち大国ロシアに勝って日本は有頂天になっていた頃です。ということはロシア・欧州・アメリカは日本を内心では脅威に感じていたのではないでしょうか。(6月19日 28のブログ)日本は小さい島国で資源もなく人の体も小さい。当時の欧米人から日本人を見れば、中学生くらいの身の丈なのに「どうしてこんなに黄色いのが強いの?」と思った事でしょう。つまり日本が有頂天だった頃、列強の中には「日本を注視すべし。増長させてはならない」とする暗黙の了解があったと思います。

こんな事は教科書では書けませんが、ここは北朝鮮やロシアではないので個人のブログで書くことが出来ます。この様に私はサイレント-マジョリティー Silent majority が世の中を動かしていると考えています。

日本は列強が黒船を並べてくると錦の御旗のもとに一丸に成るために公武合体・大政奉還・王政復古と天皇を中心にして行動する訳です。つまり国民が結束する時、その中心に天皇を据えました。ところが中国は内乱・政変・外圧が厳しくなっても清王朝を守り王朝を中心にはしないわけです。何故なのか?いずれ検証したいと思いますが両国の国民性が違うことだけは確かです。

1924年10月に馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)で紫禁城(シキンジョウ)を溥儀(フギ)は追われてしまいます。1925年、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府により日本の公館の庇護を受ける事になります。その時、中国大陸への進出を考えていた日本陸軍(関東軍)と接触し、ここから満州国建設の具体案が出てきます。

日本陸軍によって満州事変が発生し、全満州地域を関東軍が占領。張学良は中華民国政府の命で満州から撤退。満州は関東軍の支配下に入りました。 関東軍は永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した傀儡国家の樹立を考え清朝の皇帝で満洲民族出身であった溥儀を「皇帝」に擁くことを考えます。1910年に日韓併合ですから15年前の朝鮮政策を手本としたと考えられます。西洋の植民地政策とは違うものです。

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2008年6月22日 (日)

大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?44

さて因・縁・果の法則に基づき時系列に並べて検証してきましたが分かりやすく手っ取り早く簡潔に記すと「日本は韓国の貢ぐ君だった」という気がします。少なくとも当時の列強の植民地政策とは全く事を異にします。機会があったら韓国に嫁いだ方子妃の事を記したいのですが、要点だけ挙げておくと方子妃は皇室の出でありながら「自分は嫁いだのだから朝鮮人である」として朝鮮人としての行動をとりました。

戦後の経過を見ても分かるように日本は韓国に優しいです。遡ると伝統とも言えるくらい優しいわけです。 だって『冬のソナタ』ブームの時は日本の女性が感涙し思い出のロケ地に詰めかけ今でも韓国のスターが来ると韓国の旗もって空港に熱烈歓迎に出かけるのですから潜在的なものがそうさせるのではないでしょうか。

海峡というドラマがNHKで再放送されました。韓国の青年と日本の女性を中心に時代に翻弄されるというストーリーでした。

日韓の間には個人個人では忌まわしい忘れない事が当然あったと思います。ですが、その事を風化させない為にも過去に遡っての検証は尚更重要だという事になります。本当の資料を双方がデジタルにして管理し出来る限り新鮮に保たせ後生に残す努力を惜しまないようにすれば傷つけ合うことはなくなると思います。

『考える人』がロダンの感慨を離れてに勝手に歩き出したように追跡・調査していけば どこに捻れがあったのか分かると思います。しかし、その為には韓国人の人の力が必要です。韓国の留学生の方と日本の学生が調査委員会を起ち上げて二度と再び、お互いが離間しないように強力な礎を作るためにも、両国が真実を知っておく必要性があると思います。できるところから始めていけば大きな広がりになるのではないでしょうか。そして、そこから日韓新時代が到来し両国が協調し新たな一歩が踏み出せると思っています。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?43

世界最強の軍隊とは

  • アメリカ人の将軍
  • ドイツ人の参謀
  • 日本人の兵隊

世界最低の軍隊とは

  • 中国人の将軍
  • 日本人の参謀
  • イタリア人の兵隊

というジョークがありますが私は的を得ていると思っています。それでは韓国は何が当てはまるのでしょうか。

戦後、初代韓国大統領の李承晩は韓国学生が過激なデモをして暴動化していったことから、アメリカに亡命してしまいました。その後、朴大統領(1963-79在任期間16年)は 軍の抗争で死刑判決を受けた事もありましたが北朝鮮の情報に通じていた事と共産党の内部情報を提供することで死刑を逃れた人物で後にKCIAを創設します。朴大統領に対しても、初めのうち2、3回学生が起ち上がってデモをしました。世論は学生は純真だと思っているので大衆はこれに同情を寄せましたが朴大統領はその原因を知っていて背後で学生を踊らせている400人ほどの教師を逮捕追放すると、それ以来、学生は暴動を起こさなくなりました。その点、日本の政治家は全学連が暴れても洗脳している中枢を見抜けなかったということになります。

日本に駐留していたアメリカの戦闘機部隊が三沢基地を離れ韓国へ移った時、当時の中曽根防衛庁長官はアメリカが軍事費の削減を目指して在日米軍を縮小するに際し「米軍の使用していた武器を、そのまま日本に譲ってもよい」という意向をほのめかしたにも関わらず「現憲法に反する」という事で、その優れた米軍兵器を貰い受けませんでした。 ところが、これを知った韓国の朴大統領は、すかさずアメリカと交渉し日本から引き払った三沢基地の戦闘機部隊をほとんど無償で受け入れ韓国の防衛をより一層充実させました。

この時点で私の考える世界一の軍隊は

  • 将軍 韓国
  • 参謀 アメリカ
  • 兵隊 日本
だというような気がします。

何故かというと朴大統領の軍事政権が16年なかったら北朝鮮の謀略で韓国が赤化し日本が戦場になっていても不思議ではありませんでした。朴大統領はタダ同然で三沢基地で使用していたアメリカの最新兵器を手中に納め北朝鮮に脅威を感じさせ続けるだけの力量があったことになります。 防衛庁長官の任務は「谷川に堤防 海に防波堤 国家に国防」を充実させることです。米軍が譲ろうとする武器を、どうして韓国が手に入れるのでしょうか。日本が三沢基地、つまり領土を貸与していながら家賃収入もなく商品製品まで韓国に持って行かれる。過去には伊藤博文が日本は韓国に現在の金額で80兆円も資本を投入して回収は殆どされていない。その上に、これだから訳が分かりません。
 
さらに両国の為政者の力量をみると日本の政治家がいかに劣っているかが分かってきます。佐藤政権下の日本では莫大な資金と技術を提供して韓国に地下鉄を設置することになりました。さほど必要性に迫られていないのに、なぜ地下鉄を設置するのかというと「来たるべき原水爆戦争に備え地下避難所を兼ねて地下鉄を整備しよう」としていたからでしたが本家の日本本土には、そのような施設はありませんでした。

また国内であり余った米を支払いの催促なしで、ただ同然の値段で韓国へ輸送しました。韓国では、そのただ同然の日本から輸入米を使ってカキモチを作り、それを日本に逆輸出し日本のデパートで売り出していました。以上のように日本の政治家より韓国の政治家の方が遙かに有能です。

それにしても世界の枠組みが変わったんですね。日本は中国なしでは口に入れる物に始まって、あらゆる面で協調しあっていかないと無理な状態になってきました。つまり文鮮明の共産党にかつとする勝共連合は意味を成さなかったわけです。中国は変わりました。いえ変わらざるを得ない状況になったのです。情報が地上波だけでなく衛星放送、そしてネット時代と移り変わると情報統制が取れなくなり中国国民はアメリカの様子も日本の様子も手に取るように分かる時代になりました。つまり豊かなくらしを望むようになったのです。共産主義で豊かな暮らしは得られないとなると人々は資本主義を望みました。人口大国中国を一党支配体制の共産党が抑えられる事は最早できなくなりました。文鮮明率いる御本家も中国と上手くやっていかなければならないと考えているでしょう。何を言いたいのかというと信者が神と祭り上げた文鮮明はたかだか半世紀先の時代も読めなかったという事実が露呈している訳です。仮にも神を自称した男に先見の明が全くなかったという証明です。 北朝鮮は将軍様・金正日体制が一体いつまで持つのか分かりませんが、もし北朝鮮と韓国が併合した時、果たして韓国一国で北朝鮮を救えるんでしょうか。中国は政冷経熱で経済は資本主義に政治は相変わらず共産主義ですからね。アジアとしては日本がしっかりしないといけないんですが今の政治家に自国に加えて韓国・中国・アジア諸国を牽引していく力があるんでしょうか。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?42

前述した様に日本が敗戦すると悪性を施していた豪族達が中国から戻ってきて悪性を又施しはじめた彼らは又しても搾取をしたうえに恨み骨髄の日本人を「悪かったのは日本人だ。悪政をしいた」と牙を向いてネガティブキャンペーンを行いました。金日成キム・イルソン 金正日キム・ジョンイル親子などが、その典型であると記しました。ロダンの『考える人』を例に取り上げ嘘も100回1000回と繰り返されると如何に真実が腐食・変色していくものなのか証明しました。

ここで一人の韓国人を中心にして語ると、戦後どのような過程で日韓関係が歪になっていったかが明らかになります。

文鮮明を教祖とする統一協会という組織があります。一般的には桜田淳子(アイドル歌手)さん、山崎浩子(新体操)さんが1992年に韓国で合同結婚式を挙げた事で有名ですが、その組織の中心に居たお爺さんが文鮮明です。彼女たちは、この男を神の様に信じ、この男が決めた男性と結婚しました。

1960年、安保の時に赤化した学生達は岸内閣の日米安保継続に反対して社会党・共産党系に加担し国会議事堂にデモ隊が押しかけ岸首相は実弟・佐藤栄作さんと共に自決まで考えましたが新聞社が「議会政治を守れ」とする社告を掲載したことから流れが変わり参議院の議決がないまま自然成立しました。その後、岸首相は辞任直前に暴漢に襲撃され重症を追わせられた後、責任を取る形で総辞職しました。

一方、朝鮮は北緯38度線で分断され北朝鮮はロシア・中国寄りの共産主義になり韓国はアメリカ側に別れた経緯から北朝鮮を批判する反共活動が必然の裡となりました。ところが日本はそれまで国と教育現場とが一致協力して軍国主義教育を施していましたが、戦後政府はアメリカを標榜し、教育現場では日教組(共産系)に分れました。当然、子供達は日頃接している教師の思想に染まっていきました。つまり日本の子は共産思想に染まり韓国は北朝鮮の思想に染まる訳にはいかないので勝共がスローガンになっていきました。そこに目を付けたのが文鮮明でした。
文鮮明の本音は「韓国を中心とした世界戦略」でしたが最初からそれを打ち出したのでは潰されます。そこで韓国・台湾・日本を基軸にして勝共連合(原理運動)を作り最終的には国際連合を作り地上から共産主義を排斥しようとする運動をしました。これは自民党に取っては有り難いことでした。兎も角、国が補助している国立大学を始め主要な大学の方が活動は控えめですが赤化していく訳ですから飼い犬に手を噛まれている状態です。ところが若者が頼んでもいないのに勝共運動をして、しかも街頭に出て国民からカンパを募って北方領土の返還運動をしてくれたのです。
しかし、その実体は文鮮明であり、その教えは「韓国は男たる国、日本は女たる国である。その女たる国が男たる韓国に何をしたのか」と洗脳していきます。その根拠は『韓国の王室に日本の皇族である梨本宮方子(まさこ)さんが嫁いできただろう』という論理でした。これに騙された純粋だといえば純粋な日本の学生男女は「韓国に申し訳ないことをした」として涙を流して文鮮明の考えに従って行くことになります。そうして彼らは、その事を同輩に知らしめるために集会を開き文鮮明の教義を泊まり込みで洗脳していき高額な壺を売ったりして、その金を韓国にいる文鮮明に送りました。後のオウムの洗脳の走りです。

これは当時『親泣かせの原理(勝共連合)』といってマスコミを賑わせました。ソンビがゾンビを作っていく現象が起きていたわけですが、勝共連合(原理運動)は連合赤軍やオウムのサリンに代表されるようなバイオハザードを起こした訳ではありませんし、そういった実体が全国民が知ってしまうような時代では無かったため一般的な認知度は低かったようです。しかし実はこの問題は根深く深刻でした。文鮮明思想に洗脳された日本の女学生が毎年、数多く韓国へ渡りソウルで文鮮明が決めた韓国男性と集団結婚式をあげるという不合理な結婚式に佐藤首相や岸元首相は祝辞を送っていました。つまり連合赤軍やオウムと違い日本の中枢さえ騙していた証です。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?41

従って今、韓国・北朝鮮が日本人に反感を持っているのは教育の産物です。私の書いていることを韓国から来ている留学生の方がいたら検証してみてください。 私がここに記していることは学校で教わったことではありません。

(大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?⑪ 08/06/14)で記したように私の一番印象に残っている先生は「日本人は悪いことをしたんだ」と云いました。そこでどのような悪さをしたのか調べていくと従軍慰安婦の問題が確かにありました。しかし悪政ばかりではありません。むしろ善政の方が多いのです。伊藤博文を暗殺した男が韓国では英雄で伊藤が極悪人という扱いを受けていますが、その因・縁・果の検証が出来ませんでした。当時の海外メディアからは伊藤博文の死を悼み惜しむ声が聞こえます。

一体なぜ日本の国は歴史の検証をしないのでしょうか?
ごく最近、宮崎勤が死刑執行されましたが事件から20年も立っています。殺害された当時の4人の女の子達が生きていたら25歳か27歳です。今頃、結婚をして赤ちゃんを抱いて人生を満喫していたかも知れません。分かりきった凶悪犯の審議には20年もかけるのに国のしたことの検証は、いつ どこで為されたのでしょうか?もう60年以上も経過するのにです。その間、韓国・北朝鮮では全く逆の日本人史観の教育が連綿と続いてきたように思います。

プロパガンダとは恐ろしいものです。「そんなもの」と鼻で笑っている内に癌細胞のように転移していき気がついた頃には偽情報を真実とするようになっていきます。日本人は朝鮮人に当時、西洋が取ったような植民地政策は取っていません。それどころか韓国の皇太子に昭和天皇のお后になっても不思議でなかった人が個人の思いとは別に朝鮮に嫁がれています。これ一つ取ってみても欧州の植民地政策とは明らかに一線を画します。

韓国人は伊藤博文は極悪人であるとし千円札の伊藤博文を嫌いました。伊藤博文(享年68)をハルピン駅で暗殺した安重根を国では「義士」として英雄としているほどですから。しかし伊藤は本来、日韓併合に反対でした。デジタル値で検証してみると日本が朝鮮半島につぎ込んだ資本は現在の価値にすると80兆円以上との試算があります。この額は現在の日本の国家予算と同じです。今でも北朝鮮・韓国の人々から受ける日本人極悪論に対して一切の反論材料も教えないどころか、日本人は悪かったと決め付ける日本の100%過失論教育まで考え積算すると国債の借金残高と同額といってもいいでしょうね。

その上、日韓併合の申し出は朝鮮の王室だけではありませんでした。朝鮮併合に賛成する多勢の朝鮮人の中には当時の朝鮮首相・李完用もいました。反日派の群衆に2回も自宅を焼かれた事実が証明しています。それでも彼は「日本の力を頼り韓国を近代化しなければならない」と叫び続けました。彼を中心に最大の政治勢力の一進会は最高時には100万人は居たとされます(最も韓国人は存在は認めて居るようですが数字は認めていないようです)しかし一進会が日韓併合に大きく寄与したことは確かなようです。

よって伊藤博文は「朝鮮を併合しても莫大な出費を強いられるだけで、日本にはそのような出費に耐えられる国力はない」として朝鮮併合に反対していたのです。伊藤は周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に、農民・十蔵、琴子の長男として生まれ 家が貧しく12歳ころから奉公に出ます。父が萩藩の中間水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子となり、下級武士の身分を得ました。松下村塾で身分に一切関係なく教育をする教育者・吉田松陰を知り吉田松陰の思想を現実にすべく行動した先輩・高杉晋作を間近で見ていた伊藤自身が教育の重要性を一番理解しており吉田松陰が農民出身の伊藤を一人の人格者として見たように一切、人種・身分で区分けをしてはならない事は身にしみて知っていた筈です。よって伊藤博文が朝鮮の教育の浸透にも力を入れたのは当然でした。

日本敗戦の1945年までの間に、朝鮮では1000以上の学校が設立されたのは松下村塾の塾生であった伊藤博文の尽力が注がれていた証です。伊藤は当時の朝鮮を独立させようとしてきましたが朝鮮は独立できませんでした。それで日本は朝鮮を保護国としたのですが、もし朝鮮が独立できていれば・・私は世界の歴史の中でも松下村塾は教育界の大奇跡を起こしたと考えていますので韓国に吉田松陰の思想が広がっていけば本家の日本にも好影響を与えたのではないかと思うと残念です。

松陰が説いた飛耳長目(ひじちょうもく⇒全国から情報を集め正しい眼で真実を探し出す)は現代の教育には一切ない教育理念です。浮世絵・歌舞伎・相撲・柔道と今まで見向きもしなかった日本の素晴らしい伝統を外国で認められると日本人は目の色を変えて慌てて見直すという習性がありますから飛耳長目の精神を競って各学校が取り入れたのであれば、その後の日清・日露はなかったかも知れませんし勝利しても驕ることなく「大東亜戦争は飛耳長目の精神から反する」という結論を素直に受け入れたかも知れません。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?40

金日成(キム・イルソン)金正日(キム・ジョンイル)親子がその典型です。ヒトラー、ムッソリーニ然りです。人間、これをやられると実に弱いんですね。嘘も100回、1000回と繰り返されると真実に思えてきます。

例えばロダンの『考える人』という像は知らない人はいないほど有名です。しかし、この像は本来「考える人」ではありません。つまりロダンが考えたメッセージとは全く違う解釈を全世界の人達が信じている訳です。ロダンが作ったのは「地獄の門」(高さ6m)という巨大な彫刻物で罪人が地獄に堕ちていく姿がメインになっています。そして、それを眺めている10数名の内の一人が「考える人」で本来は単体の作品ではありません。しかし、これを鋳造したリュディエという人が「考える人」と名付けてしまったので作品の中の一体だけが有名になり単体ではないのに単体のように、そこだけクローズアップされた訳です。つまりロダンは罪人が地獄に堕ちていく姿と、それを見ている人々を描いているのであって『考える人』を描いた訳では、なかったのですが作者の意図とは違う解釈が世界をまかり通っている訳です。

柔らかい脳を持つ子供にロダンの『地獄の門』の作品の一部を取り出した偽物を「これはロダンが作った『考える人』だよ」と教えられ、それが世界中で浸透しているのが現状です。それを聞いた子供は、その時見た大きさが1mの模造品だったら、その大きさを本物の大きさと思うでしょうし30㎝の像であれば30㎝を本物と思うでしょう。(でも、ちょっと小さいな)と思い大人に「本物は、どのくらいの大きさなの」と聞きます。聞かれた方は(西欧人は大きいけど座っているんだから・・)「1m5、60㎝じゃないかな」と言えば子供は(そうか大きくなったら本物を見てみたいな)と思うかも知れませんが、それはおかしいのです。だって本来「考える人」という作品を作った訳ではないのですから。

もう一つポピュラーなところでは悪者を退治して印籠(いんろう)を出すと皆が平伏する『水戸黄門』と云えば徳川光圀ですが諸国漫遊したという話は一切ありません。しかし光圀は大日本史を編纂の為全国各地に家臣を派遣したことから幕末の講談師が「水戸黄門漫遊記」という光圀が諸国漫遊して世直しするという話を作り明治から助さん格さんが登場し、映画・ドラマで時代劇の定番になり昭和50年代にかげろうお銀が見参となります。

しかし生まれたときから水戸黄門見て育った私達は実話だと思って水戸黄門を見ています。「助さん」こと佐々木助三郎は実際は光圀の配下の佐々宗淳が、「格さん」こと渥美格之進ですが実際は配下の安積澹泊がモデルです。無論かげろうお銀は存在しません。しかし生まれたときから隣のお爺さんのように見ていますからね。「控え、控え、控え居ろう!この紋所が目に入らぬか!このお方を何と心得る。恐れ多くも先の副将軍・水戸光圀公であらせられるぞ!頭が高い 控え居ろう~」という台詞も覚えてしまっている訳です。

恐らく、このシーンがなければ今の子供達は「印籠って何?と思う筈です。それと同じで北朝鮮では「憲兵」とか「日本兵」という日本語をそのまま使い日本を貶めるプロパンガンダを行っています。しかし日本の今の子供達は憲兵も日本兵も逆に知りません。このように生まれたときから20年間もプロパガンダが続けば完璧に「日本憎し」とすり込まれてしまっている訳です。

そして、これは私だけではなく日本中がそうなのですから北朝鮮に置き換えると60年経った今でもプロパガンダによって昨日のことの様に日本を批判するのは、そうなるように教育しているからだと云えます。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?39

日韓合併以前の一般朝鮮人の生活は、実に気の毒なひどいものでした。当時、朝鮮の山はぜんぶ真っ赤なハゲ山で大雨が降れば洪水になり田畑が荒らされ、どうにもならない状態でした。そして現地の人たちは蟻(あり)の塔のような土を粘って造った家に住んでいました。それはオンドル(台所で煮炊きしたときに発生する蒸気や煙を居住空間の床下に通し暖房として使用する設備)の床の上にシブ紙をはりつけた粗末な家でした。日本は日韓合併条約後、寺内正毅元首相や元警視総監を勤めた丸山鶴吉など多くの優れた人を送って朝鮮の改善に努めました。

日本の内地と同様に、朝鮮全土に義務教育制をひき生活の向上を計って農工業の振興に努力を払いました。その結果、朝鮮の人々の生活は向上し、しまいには朝鮮の米が余って日本へ送るまでに豊富になりました。また日本の技術者が渡って改良に改良を加えていき日本米より良い米が朝鮮で出来るようになっていきました。ところが大東亜戦争で日本が大敗し、朝鮮から手を引いた後は元に戻って、朝鮮では米が不足し、今度は日本の余剰米を逆に朝鮮へ送る状態になっていきました。そうして日本と朝鮮の生活水準に大きな差が開いてきたので当時、多くの朝鮮の人々が暗闇に乗じ集団となって日本に密航して来ました。

従って欧米人が植民地でとった政策と日本が朝鮮と仲良く合併した後、行った政策は全くの正反対であることが分かります。欧米諸国の場合は、いつまでも現地人を隷属させるために植民地で教育をしませんでした。しかし日本の場合は、朝鮮の人々が向上するようにと、日本人と同様に朝鮮の人々に教育を受けさせ産業育成にも尽力を尽くしました。

これは今の北朝鮮を見れば明かです。北朝鮮の金日成キム・イルソン 金正日キム・ジョンイル親子は戦後全ての政権期間をこの二人が握っていますが、日本の戦後の様な食糧難で高官達は丸まると超えている一方で、一般市民や子供達は貧困と飢餓に喘いでいるのが現状です。しかし日本が朝鮮を併合していた時期に日本の政策で今の北朝鮮のようになったという資料はありません。つまり今から60年前の世界的品不足・物不足の時代であった日本の政策の方が現・北朝鮮の政策と比べものにならないほど善政であったと言えることは確かです。

それでは何故、今日、多くの日本人は日本がかつて朝鮮を搾取したと思い自責の念に囚われているのでしょうか。それは日本が朝鮮を併合した時と日本が朝鮮から引いた時期の一番の違いを見れば明らかになります。日本が韓国併合して、まず最初に何をしたか。当時の朝鮮の人々を各地で牛耳って搾取していた日本でいうところの豪族を日韓併合により、その地方の豪族・権力者達を日本部隊が皆、満洲等へ追っ払いました。分かりやすく云えば朝鮮の当時の経済の悪循環の元・癌細胞であった豪族達を切り取ったのです。これにより元々優秀な朝鮮人は今度は軌道が修正され良くなっていったのです。しかし戦後、日本が追っ払った豪族達が戻ってきてしまいました。彼らにとっては恨み骨髄の日本人です。又しても搾取を始め「悪かったのは日本人だ。悪政をしいた」と牙を向いてネガティブキャンペーンを行ったのです。

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大東亜戦争から太平洋戦争、次はアジア太平洋戦争?38

こういう実話があります。
今から40年ほど前、田所(仮称)さんは商談をしている最中に突然、商談相手の社長さんから「アンタは日本が韓国にしたことをどれだけ知っている」と聞かれ「え?よくは知りませんが」と答えると「そうだろうな。何にも知らないんだ」 と云われました。田所さんは事務所に戻って、この話を平井(仮称)社長に報告するといつもは温厚な平井さんが激怒して「どうして謝った。謝ったら全て日本人が悪いということになるんだぞ」と言われました。田所さんは「だって、あんまり怒るし、それに勉強不足で知らなかったからその事も悪いと思って謝りました」「だから駄目なんだ。建築屋が建築の事を聞かれて分からなかったら謝罪するべきだが教わっていない事まで謝るのは日本人の間だけだ。教育が教えるべき事を教えないから誤解が誤解を増幅しているだけだ」と云われたそうです。

私はアジアの平和の為にも日本・韓国・中国が友人になる必要性があると思っています。

日韓関係の人で思い浮かぶのは伊藤博文です。彼は入塾した松下村塾で吉田松陰という偉大な師匠と出会い、その生徒であった高杉晋作が結成した奇兵隊で高杉と共に戦い伊藤は後に高杉晋作を『動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし』と称しました。

偉大な先生と偉大な先輩から感化を受けた伊藤博文は鉄砲の弾一つ打たずに朝鮮を合併しました。従って日本は朝鮮を占領したのではありません。仲よく手を握って合併したのです。それも当時の韓国皇帝の未亡人に頼まれたからでした。如何に伊藤であっても朝鮮側にその気がなければ日韓併合は出来ませんから。要請を受けた日本は韓国の皇太子・李垠(リギン後の 李王)に李方子(り まさこ・朝鮮名イ・バンジャ 旧姓:梨本宮方子)という皇族の女性を嫁がせました。彼女は両国の架け橋として旧大韓帝国の李王家の李王・李垠の妃となりました。この方は昭和天皇のお妃候補でもありました。

方子さんが自らの婚約を知ったのは避暑の為、梨本宮家の別邸に滞在していた時に手元にあった新聞を何気なく開いた時でした。(勿論、それまで何の話もなく相手の人の事も知りませんでした)女子学習院高等科卒業後の1920年、李垠と結婚。これは日韓併合後の最初の国を挙げての慶事でした。

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